2016/04/02

 萩子は、自分の流す涙の量に驚いている。

 次から次へと、ぽろぽろ溢れてくる。
 少し心配になる。

 生物の時間を思い出した。人体は、ほとんど水でできている。
 私は、それを実証しているわけか。
 可笑しくなる。

 でも、別れようという言葉は、あまりにも悲しすぎる。
 萩子は、窓ガラスに映る自分を、しばらく眺めた。
 コーヒーの香りに、初めて気付く。

 明るく気持のいい陽光に満ち満ちた夏が終わり、秋が訪れる。

 夏が終わろうとする時、人は、あれほどにも元気だった陽光が、弱々しさをみせるのを見て、不安になる。
 光りが漲っていた空は、暗い雲に覆われる。しっとりとした雨が、降り続く。
 人は、夏を恋しがる。

 しかし、やがて雨に磨き抜かれたような、美しい秋が現われる。
 そんな秋は、心に染み入るような美しさを持っている。

 夏は思い出となり、人は、秋のどこか淋しげなきらめきを楽しむ。

 萩子は、スケッチ・ブックを持って、砂浜に腰を下ろしている。
 夏の賑わいが終わった、秋の海。

 萩子は、その海を丹念にスケッチ・ブックの白の空間に写し取っていく。
 人間は、海から生まれた。だから、ほとんど水分でできている。

 あれから、何年たったんだろう。
 萩子は、立ち上がる。

 海風を感じた。

1995/09/21

 空気は、湿って重い。
 細かい雨が、降っている。

 枝を四方に広げた大きな木。
 根元に少年が、立っている。

 少年は、木を見上げる。
 少し前までは、陽光に緑を輝かせていたことを思う。
 風が渡ると、さわさわと気持のいい音を聞かせてくれた。

 いまは、葉の1枚1枚が、雨にしっとりと濡れ、軽快さを失っている。
 少年は、そっと溜息を吐く。

 会社に急ぐ人たち。
 彼らも、白い輝きから、陰欝な暗い色に変わっている。
 タバコの煙が、空中で軽く流されている。
 水分をたっぷり吸い込んだアスファルトの道路を、自動車が、走る。
 路面は、自動車の赤い光を反射させる。

 少年は、木に視線を戻す。
 木は、どう感じてるんだろう。
 少年は、周囲を見渡す。それから、木の幹に軽く耳を当てた。
 なにも聞こえない。

 木が身じろぎした。
 少年は、驚いて木を見上げる。
 暗いグレーの空に広がった、枝。
 何事もない。

 どんと背中を叩かれる。
 少年は、バランスを失い、2、3歩よろめく。
 振り返ると、少女が、笑っている。

 大きな口を開けて、ぼんやりしているなんて、ずいぶんみっともいいわね。
 少年は、顔を赤らめる。
 少し遅れてしまったわ。急ぎましょう。遅刻するわよ。
 少女は、少年の手を引っ張る。
 少年は、またよろめく。

 木が笑った。
 少年は、振り返って、木を見る。

 なにしてるの、本当に遅れるわよ。
 少女に手を引かれながらも、少年は、何度も振り返る。

 とうとう少女は、怒ってしまう。少年を置いて、どんどん先に行く。

 少年は、しばらく木を眺める。
 それから、少女を追った。

1995/09/19

2016/03/29

 鍬の刃が、さくさくと気持ち良く土に中に入っていく。
 太陽は、真上から照りつけているが、夏の激しさの変わりに、優しさを持っている。

 老人の体は、軽く汗ばんでいる。風に冷たさを感じる。
 見上げると、太陽は、西に傾いている。老人の長い影を、畑の上に作っている。

 今日は、これまでだな。
 老人は、腰を下ろし、タバコと携帯用の灰皿を取り出す。
 タバコに火を点ける。タバコの煙が、夕焼けの空にゆっくりと昇っていく。

 老人は、妻の身体を拭いていたとき、湯が天井に反射した、明るい陽光のことを思った。
 あの光は、心を癒す光だ。

 妻の背中には、大きな傷跡がある。
 若い頃、老人の心は、荒れていた。
 酔った老人は、恐ろしい勢いで妻を蹴飛ばした。その時の傷だった。

 そんな老人を、妻は、なにも言わずにいつも受け入れてくれた。

 妻が、寝たきりになったとき、老人は、妻の世話を運命として受け入れた。
 妻への感謝の念や愛情からではなかった。老人は、そう考えた。

 しかし、妻の身体を拭き、下着を取り替えてやり、食事をさせてやるという生活を続けるうちに、愛とは、若い頃に考えていたよりも、深く大きなものであることに気付き始めた。

 いつの間にか、あたりはどっぷりと暮れている。

 帰らなくちゃな。
 俺には、待っている人がいる。

1995/09/16

桜花

 義雄は、北鎌倉の駅で降りる。

 陽射しは厳しいが、風が吹きわたり涼しい。
 義雄は、鎌倉にある公園まで歩く。さすがに汗をかく。

 桜花は、静かに横たわっていた。
 日本帝国軍が開発した、有人ロケット弾。

 義雄は汗を拭いながら、721海軍航空隊すなわち神雷部隊への募集が実施されたのも、こんな暑い日だったと気付いた。

 神雷とは、桜花のことだった。
 だから、募集といっても、それは、国家のために死ねという命令だった。

 友が、応募した。
 誰かが、行かなければならない。
 義雄は、ただ何度も頷いただけだった。

 トトト・ツー。神雷部隊が、無線を発する。攻撃突入。
 その無線を発した後、神雷部隊は、完全な沈黙を守った。

 後に人々は、その沈黙は、死を強いられた人間の精一杯の抵抗ではなかったかと話し合った。
 けっきょく、神雷部隊は、沈黙のなかで、全滅した。

 桜花は、ついに母機から発射されなかった。
 友は、栄光の死も拒否されてしまった。

 犬のように死んでいったのだ。

 海風が、義雄と桜花の間を通り過ぎる。
 義雄は、デイ・パックから写真を取り出す。

 古く、空気に酸化され黄ばんだ写真。
 義雄と友が、並んで写った写真。

 まだ、20代の友は、屈託なく笑っている。

※桜花は、日本帝国軍が実際に開発した兵器です。

1995/09/14

2016/03/27

約束

 突然の眩暈。

 激しい勢いで、老人は畳みの上に、仰向けに倒れる。
 それから、老人の1人住まいの家は、静まる。

 太陽が、天空を横切り、空を赤く染めてから、沈む。
 びっくりするほど大きな月が、昇る。

 月光が、窓から老人の上に降り注ぐ。
 老人は、目を開ける。しばらく月を見つめる。
 そうか、俺は朝からこうしていたのか。

 簡単な四則演算をしてみる。よし、頭には異常はないようだ。
 老人は、身体を点検する。身体にも異常はない。
 ゆっくりと起き上がろうとした。だめだ。何度か試みて、老人は諦めた。
 そのまま、月の光りの中に、身を横たえる。

 戸を叩く音。
 誰だろう。戸が開けられる。
 だめじゃないか、約束を破るなんて。澄んだ声がする。
 月明かりの中に、ほっそりした少年の姿が浮かぶ。

 おお、孝夫じゃないか。
 老人は、懐かしさに涙を流しそうになる。

 老人と孝夫は、池の話を聞いた。
 満月の夜になると、月に誘われるようにして、大きな大きな魚が現われる。
 老人と孝夫は、その魚を見に行こうと約束したのだった。

 老人は、眠ってしまった。
 孝夫は、1人で池に行き、溺れ死んだ。

 孝夫、すまなかったなあ。
 少年は、微笑みながら、首を横に振る。
 ばかだなあ、今から行くんじゃないか。

 孝夫は、手を差し出す。老人は、その手につかまる。
 老人は、少年の姿に戻っている。

 2人の少年が、月光の道を歩いていく。

1995/09/12

 視界一杯に広がる、草原。強い風。
 草原は、海のように、波うっている。

 海面の下には、少年と少女が風を避けて潜っている。

 女神よ、熱情の毒を塗った愛の矢をこの身には向けられますな。
 少年の目が、悪戯っぽく輝く。
 それって、私はさかりのついた猫になりたくないってことだろう。

 少女は、溜息をつく。
 君って、頭はいいけど、最悪ね。
 少年は、ニャオと鳴いてみせる。

 少年は、風の音に耳を澄ます。それから、話し始めた。

 ほら、夢の中で、知った人に会うだろう。昔の人は、それは、その人が自分のことを思ってくれるからだと考えたんだ。素敵な考え方だと思うんだ。
 まず「私」という存在があるんじゃなくて、人の思いが先にあるんだ。
 夢は、「私」の思いが、創るんじゃなくて、人の思いが創るのさ。

 少女は、それについて、しばらく考えてみる。
 つまり、私たちは、生きているんじゃなくて、思いに生かされているのね。
 少年は、にっこりと微笑む。
 だから、君が好きさ。

 ひときわ強い風が、草原を通り過ぎる。
 風が、草に立てさせた音が、周りを包む。
 それから、静寂が戻る。

 2人は、なにか大きなものが、そっと触れて、立ち去ったのを感じた。

1995/09/09

2016/03/24

視線

 電車が、光りをまばゆく反射させながら、入線する。

 ドアが開く。忠夫は、電車に乗る。
 席が空いている。忠夫は、腰を下ろした。

 背後から、初秋の陽光を受ける。不快でなく、心地いい。
 夏去りぬか。
 忠夫は、本を取り出し、読みはじめる。

 視線を感じた。焼けるような、熱さを持った視線。
 忠夫は、視線を動かさずに、周囲を窺う。相手を捉えることはできない。
 軽く欠伸をしてみせながら、背後の窓を振り返る。
 窓ガラスの反射の中に、視線の持ち主を探す。相手を捉える。40前後の男。

 忠夫は、視線を本に戻す。
 ページをめくりながら、男のイメージを、記憶の中にあるイメージと、1つ1つ照合していく。

 忠夫の心の中で、3年前のぎらつく夏の太陽が甦った。

 焼けついたアスファルトの道路。

 忠夫は、犯人の取調べを、新米の部下に任せた。
 一瞬の隙を見つけて、逃げだす犯人。口から血を流し、道路に仰向けになった部下。

 忠夫は、犯人の背中と部下を見較べた。
 忠夫は、犯人を追った。犯人との距離は、なかなか縮まらない。

 忠夫の視界には、真夏の太陽と犯人の背中しかない。
 咽喉が乾いたぜ。

 その時、犯人が振り向いた。苦しそうな表情。
 忠夫は、追い付けると確信した・・・あの時の男か。

 電車が止まる。
 視線の持ち主が、立ち上がる気配がする。そのまま、出ていった。
 忠夫は、顔を上げる。空っぽの席があった。

 夏去りぬ。
 忠夫は、今度は、口にだして言ってみた。

1995/09/07